丸山泰武のぼくが福岡でフリーライターをやっているわけ

はじめて原稿を書く

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 タイピングに慣れるには、当然だがある程度の時間がかかった。キーボードに目を落としながら、カチ、カチ、カチとやるのだが、なかなか元原稿は減ってくれない。「丸山さん、左手の小指を使うと結構スムーズに打てますよ」「右手も、人差し指と中指だけ使っているとなかなか上手にならないよ」。デザイナーの女の子たちが、たまにぼくのそんな姿を見てアドバイスしてくれた。「ありがとうございます」とぼくは感謝の言葉を述べ、“あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・す”と、試しに打ってみたが、やはりしっくりとはこなかった。結局、ぼくは自己流でこの課題をクリアした。だから、いまだにめちゃめちゃな指づかいが直っていない。まあ、人並みのスピードで打てるようになったから無問題だと思うのだが。

 ところで当時の福岡市は、89年に開かれる『アジア太平洋博覧会』を前にして、一部で盛り上がりを見せていた。正確にいえば一部ではなく、相当の人が盛り上がっていたのかもしれないが、少なくともぼくやぼくの仲間たちには何の関わりもないイベントだった。しかし、編集プロダクションにしてみれば、これはある程度の利益を生む機会だったはずだ。わがP社にも、そのパンフレットの一部をつくるという、ありがたい仕事が舞い込んでいた。

 「丸山くんさ、この資料を見て、何でもいいから福岡がいちばんっていう項目を見つけてくれない。多少、こじつけみたいになってもいいからさ」とワタナベさんはぼくに言った。「いちばん、ですか」「そう、たとえば…屋台の数とか、まあ、それはでたらめだけど」「わかりました。調べますね」とぼくは答えた。

 アルバイトを始めてしばらくすると、ぼくはライターという仕事がいままで経験したどの職業よりも「やりやすい」と思い始めていた。ぼくはひどい人見知りだったから、とにかく他人とコミュニケーションをとるのが苦痛だった。けれども、少なくともP社で望まれるのは、ワードプロセッサの操作を覚え、原稿をひたすらデータにしていくことだったり、資料を読みこむことだったり、ひとりきりでやればいいことばかりだった。ワタナベさんをはじめとする会社の面々も、必要以上に話しかけてこなかったし、ぼくも必要以上のことは話さなかった。もちろん、そういう仕事ばかりではないことは、いまではよくわかっているが、当時は居心地のよささえ感じていた。

 ぼくはワタナベさんに、「福岡市って橋の数が多いみたいです」と報告をした。「ありがとう。じゃあ、そうだなぁ、ちょっとそのトピックを原稿にしてもらおうかな」と彼は言った。実を言うとぼくは学生のころ新聞部にいたから、原稿をまったく書いたことがないわけではなかった。「わかりました、何か書く上で気をつけることはありますか。たとえばコツみたいなこととか」「うーん、とにかく書いてみて。話はそれからだね」「はい」。そんなふうにして、ぼくはライターへの道を、ゆるやかに踏み出したのだった。