連載書き下ろし小説

なお、この星の上に

作:片山恭一

写真:川上信也

プロデュース・ディレクション:東裕治

昭和30年代はじめ、中国山地の山奥で未来のエネルギー資源とされる鉱床が発見される。全国的な注目を浴びて沸き立つ村の人たち、新しい考え方や価値観への戸惑い、変わっていく生活、失われていく伝統的な暮らし。そのなかを生きる健太郎を主人公とする4人の少年たち。彼らを取り巻く大人たち、自然、野生の動物。戦争の傷跡はなお色濃く残っている。死者の国と現世を往還する者たち。古い伝説とアニミズムの面影を残す世界で物語は幕を開ける。もう一つの「失われた時を求めて」。過去のものの無化、存在するものの交替。そのなかで少年たちは何を見出すのか?

エピローグ

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epi-3

「だいぶ前に近場の霊園に移した」
「そうやろうな」豊は納得したように頷いた。「歳をとったらなんでも便利なのがええ」
 いつか村の墓地で清美と出会ったことがある。雑木林が色づきはじめる秋の日だった。ぼんやりしているところへ、不意に彼女は現れた。何を話したのかおぼえていない。ただ視線を交わしたことだけが、健太郎のなかに鮮明な記憶をとどめていた。長い時間、相手の瞳を覗き込んでいた気もするが、中学生のことだからそれほど大胆なことはできなかったはずだ。
 しばらく探しまわって、ようやく墓は見つかった。他のものと同じように、新吾の家の墓石も新しかった。豊が用意してきた花と線香を供え、三人が順番にお参りした。さすがに歳を重ねると合掌の所作なども板についてくるものだ、と健太郎は半ば呆れた心持で二人を眺めた。
「新吾のとこは息子が二人おってな」豊がたずられもしないことを話しはじめた。「これがどっちもよおできた子らでな、最期まで交代で父親の世話をしていたらしい。息子たちが髭を剃ってくれると嬉しそうに言っていたよ」
 その口ぶりが蘇るようで、健太郎は胸のあたりが苦しくなった。いまの時代としてはいくらか若いとはいえ、不自然なほど早い享年ではない。この歳になれば何があってもおかしくはない、と頭ではわかっていても、やはり旧い友だちの死は気持ちの奥底に堪えた。同期の友人の死もはじめてというわけではないのに、身近な者を亡くしたような喪失感をおぼえている。
「この墓も息子らが建てたそうな」豊は新吾の家の事情について話しつづけた。「しっかり者の息子らが跡を継いでくれて、新吾も安心してあの世へ行けたのやないかな」
「会社をやっておったんやろう。建築関係と聞いた気がするが」健太郎が話を向けると、
「小さいながら人を使ってな、一人で切り盛りしよった」そう言って、豊は開けた街のほうへ遠い眼差しを向けた。「難しい時期もあったみたいで、金策に駆けまわっているという噂は、わしらの耳にも入ってきたのやが、頼みに来たことは一度もなかったな」
「金がないことがわかっとんたんやろう」武雄が横から言葉を挟むと、
「そうかもしれん」と軽くうなずいて、豊はどこか神妙な顔でつづけた。「ときどき酒場で会うことがあって、あいつは暗い顔をして飲んどったよ。ところがこっちに気がつくと、何事もなかったみたいな顔で話しかけてきた」
「新吾らしいな」健太郎は思わず言った。
「銀行や商売相手には頭は下げても、友だちに頭を下げるのは嫌やったのかの」豊は無難なところで受けた。「大きな借金ではなかったと思うよ。会社も大きくはなかったし」

片山恭一

愛媛県宇和島市生まれ、福岡県福岡市在住。小説家。九州大学農学部農政経済学科卒業。同大学院修士課程を経て、博士課程中退。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。代表作は、故郷の宇和島市を舞台にした『世界の中心で、愛をさけぶ』。2001年に出版、2004年5月には発行部数が国内単行本最多記録の306万部となった。

川上信也

1971年 愛媛県松山市生まれ。福岡および大分県竹田市白丹を拠点とするフリーのフォトグラファー。福岡大学建築学科卒業後、大分県くじゅうの法華院温泉山荘に1997年より5年間勤務。その間にくじゅうの風景写真、アジアの旅風景を撮り続ける。その後、プロ活動を開始し、様々な雑誌撮影に関わり、風景のみならず、自然光を生かしたポートレート、料理などの撮影を行う。定期的に写真集を出版し、写真展やトークショーも開催。

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