連載書き下ろし小説
なお、この星の上に
写真:川上信也
プロデュース・ディレクション:東裕治
昭和30年代はじめ、中国山地の山奥で未来のエネルギー資源とされる鉱床が発見される。全国的な注目を浴びて沸き立つ村の人たち、新しい考え方や価値観への戸惑い、変わっていく生活、失われていく伝統的な暮らし。そのなかを生きる健太郎を主人公とする4人の少年たち。彼らを取り巻く大人たち、自然、野生の動物。戦争の傷跡はなお色濃く残っている。死者の国と現世を往還する者たち。古い伝説とアニミズムの面影を残す世界で物語は幕を開ける。もう一つの「失われた時を求めて」。過去のものの無化、存在するものの交替。そのなかで少年たちは何を見出すのか?
エピローグ
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epi-11
新吾、あれから長い年月が流れたなあ。村は変わり、まるで馴染みのないところになってしまった。こっちが歳をとったせいだろうか。目にするものが、どれもどぎつく軽薄で安っぽく感じられる。旧社会主義国の落ちぶれ方も尋常ではないが、この国の荒廃の仕方もまともではない。多くのものがなくなった。おまえも含めて、大切な人たちが世を去った。
世界も変わった。若いころに憧れた国は、ほとんどが地球上から消え去った。名前も国境も消えてしまった。だが国がなくなっても人は生きつづけている。生き延びるために殺し合いもする。本当に際限もないくらい殺し合うものなのだな。その痕跡を見てきたよ。人間同士が至近距離で銃を撃ち合った通りが、自分のなかにもあるのを感じる。狙撃通りと呼ばれる道の隣には、だが新吾、おまえとともに歩いた野山がある。ともに駆けた草原があり、ともに泳いだ川がある。いまもありつづけている。何も失われていない。
亡くなった祖母がよく言っていた。魂が美しい人間になりなさいと。魂の戻るところが必要だとも言っていた。現世とあの世のあいだにある、永遠に遠くて近い故郷、そういう場所を見つけなさいということだったのだろう。「あるのか」とたずねると、当人は「ある」と答えた。それはどこかと重ねてたずねると、教えられないと言った。一人ひとりの秘密の場所だから、誰かに教えてはいけないということだったのかもしれない。だが教えられなくても、わざわざ探さなくとも、知っていたような気がする。魂が戻る場所を。そこにずっといた気がする。その場所は、ここにある。おれのなかに、小さな日溜まりのようにしてありつづけている。新吾、おまえもいるのだろう?
遠い星の光が届くようにして、どこからともなく「アツシ」という名前がやって来た。青白く光る草原を二匹の野犬として、ともに駆けた日のことを思い出した。本当にあったことなのか、ありもしないことをあったと思い込んでいるのかわからない。現にあったかどうかは、どうでもいいことのような気がした。いま真実と感じられる。その真実のなかに自分はいる。
はるばるとした時間のなかで、野犬は二つで一つのものだった。足は休みなく地面を蹴り、二つで一つのものは草原を駆けつづける。途切れることのないメロディのように。柔らかな爪で音符を刻みつづける。日差しが弾ける。草花が匂い立つ。空が草原にばらまかれている。その草原が、いまも自分のなかに広がっている。そんな世界から、自分はやって来たのだと思った。やって来て、いまここにいるのだと思った。
片山恭一
愛媛県宇和島市生まれ、福岡県福岡市在住。小説家。九州大学農学部農政経済学科卒業。同大学院修士課程を経て、博士課程中退。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。代表作は、故郷の宇和島市を舞台にした『世界の中心で、愛をさけぶ』。2001年に出版、2004年5月には発行部数が国内単行本最多記録の306万部となった。
川上信也
1971年 愛媛県松山市生まれ。福岡および大分県竹田市白丹を拠点とするフリーのフォトグラファー。福岡大学建築学科卒業後、大分県くじゅうの法華院温泉山荘に1997年より5年間勤務。その間にくじゅうの風景写真、アジアの旅風景を撮り続ける。その後、プロ活動を開始し、様々な雑誌撮影に関わり、風景のみならず、自然光を生かしたポートレート、料理などの撮影を行う。定期的に写真集を出版し、写真展やトークショーも開催。
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