連載書き下ろし小説

なお、この星の上に

作:片山恭一

写真:川上信也

プロデュース・ディレクション:東裕治

昭和30年代はじめ、中国山地の山奥で未来のエネルギー資源とされる鉱床が発見される。全国的な注目を浴びて沸き立つ村の人たち、新しい考え方や価値観への戸惑い、変わっていく生活、失われていく伝統的な暮らし。そのなかを生きる健太郎を主人公とする4人の少年たち。彼らを取り巻く大人たち、自然、野生の動物。戦争の傷跡はなお色濃く残っている。死者の国と現世を往還する者たち。古い伝説とアニミズムの面影を残す世界で物語は幕を開ける。もう一つの「失われた時を求めて」。過去のものの無化、存在するものの交替。そのなかで少年たちは何を見出すのか?

第十七章

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17-3

「助け合い、分かち合うことを知っているのも人間だ。困っている人を助ける。求められなくても、たとえ相手が遠慮しても、そっと手を差し伸べる。見ず知らずの人に施しをする。それが人間だ」
「見ず知らずの相手を憎しみもなく殺すことができるのも人間だ」声は冷ややかに答えた。「しかもおまえたちの世界では、そのことが公認され、奨励すらされている。いったいどうなっているのだ。人間がしでかす殺戮は、動物たちが生きるために他の動物を殺すのとはまったく違ったものだ。おまえたちは本当の善性に目覚めていない。自分たちで勝手に善悪を決めて同類を殺しまくっているではないか。そんな馬鹿げたことをやっているのは人間だけだ。言葉をもっていることが自慢のようだが、おまえを殺そうとしている相手に、いったいどんな言葉をかけるつもりなのか。言葉が通じないから鉄砲を撃ち合っているのだろう。いかなる言葉も役に立たず、無力なものと知っているから、爆弾を投げ合っているのだろう」
「違う。そうではない」健太郎はむきになって言った。「言葉が役に立たないとき、人間は笑顔を見せる。笑いには言葉を超えた力がある。たとえ暴力や混乱や不安や怒りがあっても、笑顔を見せれば争いは収まり、話し合いがはじまる」
「なるほど、おまえが暮らす村のなかではそうかもしれぬ。だが村と村が争うときはどうか。山一つ超えただけで、笑顔はただのおかしな顔に過ぎなくなる。そういうときには鍬や鎌だ。これが国同士になると鉄砲や爆弾になる。見てきたぞ、おまえたちの歴史とやらを。どんな人間にとっても、人間とは自分を含む身内のことなのだ。所詮、自分の身内だけが善なる人間で、それ以外のものは悪であり、敵であり、せいぜいのところ石ころや土くれに過ぎない。だからおまえたちは同じ人間を物同然に、家畜と同様に扱うのだ」
 言い負かされたとは思わなかったが、反論する気力は削がれていた。
「戦争で自分が殺した人間の顔さえおぼえていないおまえたちのことだ」高くも低くもならない声はつづけた。「まして殺した動物のことなどおぼえてはいまい。人間は自分が殺した動物のことなどおぼえていない。だがおぼえておくことだ、人間に殺された動物は自分を殺した者の顔を永久に忘れることがない。いったいおまえたちは、一生のうちにどのくらいの動物を殺しているのか。毎日のように食べている牛や豚や鶏たちも含めれば大変な数になるだろう。おびただしい動物たちによって、一人ひとりの顔がすべて記憶されているのだ。おまえが殺したものたちの記憶のなかに、おまえの顔は永遠にとどめられるのだ。恐ろしいことだと思わないか」
「動物だって動物を殺すじゃないか」

片山恭一

愛媛県宇和島市生まれ、福岡県福岡市在住。小説家。九州大学農学部農政経済学科卒業。同大学院修士課程を経て、博士課程中退。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。代表作は、故郷の宇和島市を舞台にした『世界の中心で、愛をさけぶ』。2001年に出版、2004年5月には発行部数が国内単行本最多記録の306万部となった。

川上信也

1971年 愛媛県松山市生まれ。福岡および大分県竹田市白丹を拠点とするフリーのフォトグラファー。福岡大学建築学科卒業後、大分県くじゅうの法華院温泉山荘に1997年より5年間勤務。その間にくじゅうの風景写真、アジアの旅風景を撮り続ける。その後、プロ活動を開始し、様々な雑誌撮影に関わり、風景のみならず、自然光を生かしたポートレート、料理などの撮影を行う。定期的に写真集を出版し、写真展やトークショーも開催。

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