連載書き下ろし小説

なお、この星の上に

作:片山恭一

写真:川上信也

プロデュース・ディレクション:東裕治

昭和30年代はじめ、中国山地の山奥で未来のエネルギー資源とされる鉱床が発見される。全国的な注目を浴びて沸き立つ村の人たち、新しい考え方や価値観への戸惑い、変わっていく生活、失われていく伝統的な暮らし。そのなかを生きる健太郎を主人公とする4人の少年たち。彼らを取り巻く大人たち、自然、野生の動物。戦争の傷跡はなお色濃く残っている。死者の国と現世を往還する者たち。古い伝説とアニミズムの面影を残す世界で物語は幕を開ける。もう一つの「失われた時を求めて」。過去のものの無化、存在するものの交替。そのなかで少年たちは何を見出すのか?

第八章

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 いずれ山の木は一本も伐れなくなるのではないか、と健太郎は皮肉の一つも言ってみたくなるが、口には出さなかった。
「どんな木を伐るのも、あんまり気持ちのええものやない」父は自分の胸の内を覗き込むようにして言った。「植林した木はそれほどでもないが、何百年も経った古い木を伐るときは、やっぱり妙な気がするもんでな。まして天狗の腰掛けと言い伝えられてきたような木を、誰も伐ろうとせんのはもっともなことやろう。だが道は通さねばならん。そこで村の人らは相談して、町から人夫を集めることにした。ちょっと狡い手を使ったわけやね」
 父は示し合わせるように、ちらりと息子のほうを見た。健太郎は応えなかった。
「あんまり気にし過ぎるのは、どうかとも思うが」自然な流れで話に戻った。「この木もあの木も伐っちゃならんでは、山の仕事は成り立たん。しかし天狗の腰掛けみたいに特別な名前がついた木には、やっぱり何か謂れがあったのやろう。そういうことは長年、山に入って仕事をしてきた者にしかわからん。また教えてわかるようなものでもない。頭でわかったつもりでも、本当のところはわからん。その木が天狗の腰掛けと呼ばれておることの本当の意味いうか、木に名前をつけることの重みみたいなものはわからんやろう」
 父は言葉をおいて、自分の言ったことがうまく伝わっているかどうか確かめるように息子を見た。それから変わらぬ口調でつづけた。
「昔から言い伝えられてきたことの意味は、わしらでもだいぶんわからんようになっとる。いろんな木に名前がついとるのは、昔の人らが一本一本の木を人間みたいに違うものとして見とったからやろう。そういう違いは、わしらにはもうわからんようになっとる。まして山を掘り返しとる人らにはわかるはずもない。木は木で、どれも一緒にしか見えん。それで無闇に木を伐ることができる。山も木も、カネを産む道具ぐらいに思う人が増えよる気がする。カネが厄介なのはそういうところでな。あの木は五千円、この木は一万円と値段がついては、天狗の腰掛けのことなどわからんようになってしまう。万事がわかりやすうなる一方で、大事なことがわからんようになる。カネのことなら誰にでもわかる。十円は十円、百円は百円とはっきりしとる。それで何が買えるかは小学生でもわかる理屈よな。世の中がカネの話ばかりになるのは、あんまりええことやないのかもしれん。一事が万事、大人でも子どもでもわかるようになると、経験を積むとか歳をとるいうことが、なんやら味気ない、面白みのないものになる」

片山恭一

愛媛県宇和島市生まれ、福岡県福岡市在住。小説家。九州大学農学部農政経済学科卒業。同大学院修士課程を経て、博士課程中退。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。代表作は、故郷の宇和島市を舞台にした『世界の中心で、愛をさけぶ』。2001年に出版、2004年5月には発行部数が国内単行本最多記録の306万部となった。

川上信也

1971年 愛媛県松山市生まれ。福岡および大分県竹田市白丹を拠点とするフリーのフォトグラファー。福岡大学建築学科卒業後、大分県くじゅうの法華院温泉山荘に1997年より5年間勤務。その間にくじゅうの風景写真、アジアの旅風景を撮り続ける。その後、プロ活動を開始し、様々な雑誌撮影に関わり、風景のみならず、自然光を生かしたポートレート、料理などの撮影を行う。定期的に写真集を出版し、写真展やトークショーも開催。

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