連載書き下ろし小説

なお、この星の上に

作:片山恭一

写真:川上信也

プロデュース・ディレクション:東裕治

昭和30年代はじめ、中国山地の山奥で未来のエネルギー資源とされる鉱床が発見される。全国的な注目を浴びて沸き立つ村の人たち、新しい考え方や価値観への戸惑い、変わっていく生活、失われていく伝統的な暮らし。そのなかを生きる健太郎を主人公とする4人の少年たち。彼らを取り巻く大人たち、自然、野生の動物。戦争の傷跡はなお色濃く残っている。死者の国と現世を往還する者たち。古い伝説とアニミズムの面影を残す世界で物語は幕を開ける。もう一つの「失われた時を求めて」。過去のものの無化、存在するものの交替。そのなかで少年たちは何を見出すのか?

エピローグ

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epi-17

「あの春の野原からはじまったんだ。遠い春の日の、ほんの一瞬の出会い。あれが最初だった。最初の不思議な出来事だった。あれからいろいろなことがあった。幾つもの野原を通ってきた。そのたびに自分というものがはじまった。誰かと眼差しを交わし、交わした眼差しのなかに新しい自分を見つけた。いつも誰かが見てくれていた。その眼差しに包まれて生きてきた。だが、あれが最初だった。多くのことが変わっても、いろいろなものが消えてなくなっても、何も変わらない。何も消え去りはしない。変われば変わるほど変わらない。わしもおまえも。だから清美、安心していいんだよ。おまえが少しずつ消えていき、他の誰になっていこうと、おまえはおまえだ。清美のままだ」
 食堂や談話室のあるエリアを離れてしまうと建物のなかは静かだった。他の入所者にも施設のスタッフにも会わなかった。健太郎は静かに車椅子を押しつづけた。廊下をひとまわりするあいだに魂が抜けてしまった気がした。みんな出ていったのだ。大航海時代のポルトガルみたいに。先陣をきって海外に進出し、それこそ地球を一まわりして戻ってくるあいだに、自分たちが何者なのかわからなくなっていた。故郷もアイデンティティも失っていた。そんな気分だった。
 だが地の果てまで広がり出た心が再び戻ってくると、喪失感や郷愁とともに多くのことが甦りはじめた。外にあったものが内に取り込まれていく。これまでに通ってきた場所が、生きてきた時間が、すべていまここにある。消えた自然は手つかずのままに、いなくなった人たちは損なわれぬままに、何も変わらずにありつづけている。 「不運なことや悲しいこともあったが、自分を不幸せと感じることはなかった」白亜の心で健太郎は言った。「自分が不幸な者ではありえなくなったんだ。夢を見たから。夢のなかに、不幸は入り込めない。不幸をもたらすものは何一つ入り込めない。そんな夢を清美、わしはおまえと一緒に見た。束の間の夢だったが、夢の余韻は残りつづけた。いまも残りつづけている。これまでも、これからも大丈夫だと感じる。どんなことが起こっても、あのときの温もりが、あのときに触れたものが包んでくれているから」
 もとの場所まで戻って来ていた。そろそろ暇を告げる頃合いだった。スタッフが近づいてきて「おかえりなさい」と言った。
「おやつにしましょうね」
 長居をするつもりはなかった。
「また来るよ。今度は花を持って」
 手を取ると細い指が冷たかった。元のように膝の上に置いて離れた。しばらく行ったところで背中に風を感じた。あのときの日差しの温もりが蘇ってくる。
「健太郎」
 声が追いかけてきた。彼は振り向いた。
「お花を摘んできてくれるか」
 無邪気にたずねている人は、おれよりも近くにいる。彼は軽く頷いて、あとはもう振り向かなかった。

〈了〉

片山恭一

愛媛県宇和島市生まれ、福岡県福岡市在住。小説家。九州大学農学部農政経済学科卒業。同大学院修士課程を経て、博士課程中退。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。代表作は、故郷の宇和島市を舞台にした『世界の中心で、愛をさけぶ』。2001年に出版、2004年5月には発行部数が国内単行本最多記録の306万部となった。

川上信也

1971年 愛媛県松山市生まれ。福岡および大分県竹田市白丹を拠点とするフリーのフォトグラファー。福岡大学建築学科卒業後、大分県くじゅうの法華院温泉山荘に1997年より5年間勤務。その間にくじゅうの風景写真、アジアの旅風景を撮り続ける。その後、プロ活動を開始し、様々な雑誌撮影に関わり、風景のみならず、自然光を生かしたポートレート、料理などの撮影を行う。定期的に写真集を出版し、写真展やトークショーも開催。

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