連載書き下ろし小説

なお、この星の上に

作:片山恭一

写真:川上信也

プロデュース・ディレクション:東裕治

昭和30年代はじめ、中国山地の山奥で未来のエネルギー資源とされる鉱床が発見される。全国的な注目を浴びて沸き立つ村の人たち、新しい考え方や価値観への戸惑い、変わっていく生活、失われていく伝統的な暮らし。そのなかを生きる健太郎を主人公とする4人の少年たち。彼らを取り巻く大人たち、自然、野生の動物。戦争の傷跡はなお色濃く残っている。死者の国と現世を往還する者たち。古い伝説とアニミズムの面影を残す世界で物語は幕を開ける。もう一つの「失われた時を求めて」。過去のものの無化、存在するものの交替。そのなかで少年たちは何を見出すのか?

第十六章

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16-6

 野犬の視線に射抜かれたまま、健太郎はその場を動くことができなかった。身体から汗が吹き出してくる。落ち着け、と自分に言い聞かせた。怯えていることを悟られてはならない。一方で、いま起こっていることへの現実感が乏しかった。自分の身に危険が迫っているのに、切迫した感じが生まれない。身体は怯えているのに頭は何も感じなかった。ただ無感覚に事態と対峙している。ともすると夢心地に引き込まれかけている。すべては自分の身を離れた別の場所で起こっているように感じられた。
 時間が過ぎた。実際は数秒だったのかもしれないが、健太郎には何分にも感じられた。一瞬、野犬の身体が膨らんだように見えた。それが収縮すると黒い弾丸の形になった。弾丸は素早く健太郎の横を走り抜けて、父のいる木橇道のほうへ飛び出していこうとした。
「待て」
 野犬は自分の名前を呼ばれたかのように立ち止まった。
「アツシ、おまえか」
 犬は健太郎のほうを向いてわずかに牙を剥いた。肯定したようにも、否定したようにも見えた。それから林の外へ身を躍らせた。異変に気づいた父が銃を構えた。流れるような動作で弾を薬室に起こり込み、膝撃ちの姿勢で狙いをつけた。まさに引き金を絞ろうとする間際だった。
「撃つな」
 犬と一緒に飛び出してきた息子に、父の指が止まった。照準具から目を離して健太郎を見ると、
「離れろ」と怒鳴った。
 その隙に、犬は父に襲いかかった。鈍い銃声が空気を震わせた。ひと握りの毛が宙を舞った。悲鳴は上がらなかった。弾は犬の身体をかすめただけで、命中はしなかったらしい。二発目の銃声は聞こえなかった。火薬の匂いが漂ってくる。
「撃て、撃て」誰かが叫んでいる。
 犬が父の腕に喰らいついている。銃は持ち主の手を離れて地面に転がっている。
「撃て」叫んでいるのは父だった。
 憤怒と痛みに顔を歪め、拳で犬を殴って引き離そうとしている。
「銃を拾え」必死の形相で父は訴えた。
 健太郎は言われるままに銃を取った。犬は銃の先で触れられるほどのところにいる。父の銃は左右二連式の散弾銃だ。弾はあと一発残っているはずだ。引き金を絞れば発射される。これだけの至近距離にあっても、誤って父を撃ってしまいそうな気がした。
「早く撃て」
 父や横向きに身体をねじるようにしている。その喉仏に野犬は喰らいつこうとしている。もはや猶予はない。健太郎は銃を構えると、照準具も見ずに狙いをつけた。犬は父に気を取られて、自分に向けられている銃口に気づかない。

片山恭一

愛媛県宇和島市生まれ、福岡県福岡市在住。小説家。九州大学農学部農政経済学科卒業。同大学院修士課程を経て、博士課程中退。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。代表作は、故郷の宇和島市を舞台にした『世界の中心で、愛をさけぶ』。2001年に出版、2004年5月には発行部数が国内単行本最多記録の306万部となった。

川上信也

1971年 愛媛県松山市生まれ。福岡および大分県竹田市白丹を拠点とするフリーのフォトグラファー。福岡大学建築学科卒業後、大分県くじゅうの法華院温泉山荘に1997年より5年間勤務。その間にくじゅうの風景写真、アジアの旅風景を撮り続ける。その後、プロ活動を開始し、様々な雑誌撮影に関わり、風景のみならず、自然光を生かしたポートレート、料理などの撮影を行う。定期的に写真集を出版し、写真展やトークショーも開催。

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