連載書き下ろし小説
なお、この星の上に
写真:川上信也
プロデュース・ディレクション:東裕治
昭和30年代はじめ、中国山地の山奥で未来のエネルギー資源とされる鉱床が発見される。全国的な注目を浴びて沸き立つ村の人たち、新しい考え方や価値観への戸惑い、変わっていく生活、失われていく伝統的な暮らし。そのなかを生きる健太郎を主人公とする4人の少年たち。彼らを取り巻く大人たち、自然、野生の動物。戦争の傷跡はなお色濃く残っている。死者の国と現世を往還する者たち。古い伝説とアニミズムの面影を残す世界で物語は幕を開ける。もう一つの「失われた時を求めて」。過去のものの無化、存在するものの交替。そのなかで少年たちは何を見出すのか?
第十六章
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16-5
木立の先に腰をかがめている男の姿が目に入った。父だった。このあたりでは伐採した材木や薪を運ぶのに、「きんま」と呼ばれる木橇が使われてきた。橇の滑りを良くするため、地面に丸太などを埋め込んだきんま道が山のあちこちに敷かれている。父が待機しているのは、そうした道の傍らだった。行く手を阻まれる格好で、健太郎は足を止めた。これ以上進んでは気づかれてしまう。野犬が現れるのを待つつもりなのだろう。近くにも別の射手が待機しているはずだが、ここから確認できるのは父一人だった。
音を立てないように木の陰に腰を下ろした。何時ごろだろう。すでに太陽は高くなっている。山では時間の経過がわからなくなる。里とは時間の流れ方が違っているようだ。同じ速度で均質に流れるのではなく、止まっていた時間が、何かの拍子に一塊になって経過する。山はいろんな方法で人の感覚を欺く。
静かだった山が急に騒がしくなった。犬が放たれたらしい。遠くから何匹もの犬の声が聞こえてくる。まだかなりの距離がありそうだった。少し離れた場所にいる父は動かない。山のなかで起こっていることにじっと耳を澄ましている。多くの男たちが同じように待機していることだろう。健太郎もまた息を殺して待ちつづけた。耳を澄ましていると全身の感覚が研ぎ澄まされていく。鋭敏になった聴覚には、木の葉の散る音さえも聞こえる気がする。
遠くで一発の銃声がした。響きは長く尾を引いて、やがて山のなかへ吸い込まれていく。あたりは再び静かになった。なおも父は動かない。銃声のしたほうへ小さく顔を向けただけで、あいかわらず腰を上げる気配はない。銃声は一発だけだった。息が詰まりそうな時間が過ぎた。何かがやって来ようとしている。心臓が高鳴っている。緊張感で息苦しくなる。無性に喉が渇いた。何度も舌で唇を舐めるが、すぐに乾いてしまう。大きな息をすると、父が振り返りそうな気がする。
暗い影のようなものが森を覆っていた。強大な力を持つ危険な存在が近くに潜んでいる。いまや時間はねばねばしたタールのように山全体を覆っていた。膠着した時間から引き剥がされるように、それは不意に姿を現した。雑木林の下生えのあたりから飛び出してきた。全身が硬い鉱石のような黒褐色の毛に覆われた一匹の野犬だった。低い唸り声を上げながら、健太郎のほうへ牙を剥いている。凶暴な目つきで獲物を凝視している。
片山恭一
愛媛県宇和島市生まれ、福岡県福岡市在住。小説家。九州大学農学部農政経済学科卒業。同大学院修士課程を経て、博士課程中退。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。代表作は、故郷の宇和島市を舞台にした『世界の中心で、愛をさけぶ』。2001年に出版、2004年5月には発行部数が国内単行本最多記録の306万部となった。
川上信也
1971年 愛媛県松山市生まれ。福岡および大分県竹田市白丹を拠点とするフリーのフォトグラファー。福岡大学建築学科卒業後、大分県くじゅうの法華院温泉山荘に1997年より5年間勤務。その間にくじゅうの風景写真、アジアの旅風景を撮り続ける。その後、プロ活動を開始し、様々な雑誌撮影に関わり、風景のみならず、自然光を生かしたポートレート、料理などの撮影を行う。定期的に写真集を出版し、写真展やトークショーも開催。
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