連載書き下ろし小説

なお、この星の上に

作:片山恭一

写真:川上信也

プロデュース・ディレクション:東裕治

昭和30年代はじめ、中国山地の山奥で未来のエネルギー資源とされる鉱床が発見される。全国的な注目を浴びて沸き立つ村の人たち、新しい考え方や価値観への戸惑い、変わっていく生活、失われていく伝統的な暮らし。そのなかを生きる健太郎を主人公とする4人の少年たち。彼らを取り巻く大人たち、自然、野生の動物。戦争の傷跡はなお色濃く残っている。死者の国と現世を往還する者たち。古い伝説とアニミズムの面影を残す世界で物語は幕を開ける。もう一つの「失われた時を求めて」。過去のものの無化、存在するものの交替。そのなかで少年たちは何を見出すのか?

第十六章

最初から読む <

16-4

 舶来品の石鹸みたいな匂いが漂ってきた。いつのまにか山は雑木林から植林された針葉樹の森に変わっている。空気は爽やかさを通り越して冷たかった。かすかに雪の気配がする。山の上のほうでは、すでに冬がはじまっているのかもしれない。自分が山の一部になったような気がした。山の大気が血管を流れている。大きな生命の実感が満ちてきて、自分が山全体に広がっていく。
 風のない静かな朝だった。木立のあいだから差す秋の陽が、降り積もった落ち葉の上に暖かそうな光を集めている。時間が止まったように感じられた。いつか祖父に連れられて、キジ撃ちに行ったときのことがある。適度に秋の深まったころ、健太郎はまだ小学校の低学年だった。浅い谷間を隔てた山の斜面から、「ケーン」という独特の鳴き声が聞こえてきた。伐採されたまま植林が済んでいない山肌は一面が芒に覆われ、ところどころに低い灌木の茂みが見えていた。
 いかにもキジが潜んでいそうな場所だ、と祖父は言った。キジはたいてい枯れ草や灌木のなかに隠れている。向こうが物音でも立ててくれないかぎり、人間の目で見つけることは難しい。そこで犬の出番になる。昔は笛を使っておびき出したというが、戦後はもっぱら犬が頼りだった。祖父が飼っていたのは中型の紀州犬で、この犬にキジの匂いを追わせるのだった。獲物を見つけた犬は、しっぽを立てて標的を睨んでいる。そのあいだに人間のほうは銃に弾をこめて狙いを定める。準備ができたところで合図をすると、犬は獲物に向かってタックルをかける。キジが飛び立ったところを散弾で撃つ。
 実際に獲物がとれたかどうかはおぼえていない。祖父は何度か銃を撃ったはずだが、弾が放たれるところも、そのあと獲物がどうなったのかも、健太郎のなかでは記憶をとどめていなかった。キジが撃たれる光景は大きな銃声とともに子どもに恐怖を与え、幼い心は無意識にそれらを消してしまったのかもしれない。誰かから聞いた話を健太郎は思い出した。戦争で孤児になった子どもたちのなかには、すっかり記憶をなくしている者がいるという。あまりにも大きな恐怖や悲しみは記憶として残らないらしい。そうやって本能的に身を守っているのだろう。
 足元の枯れ枝を踏み折る音が異様に大きく響いた。足を止めると、森は奇妙な静けさに包まれていた。耳を澄ましても何も聞こえない。鳥の羽音も、枝の擦れ合う音もしない。近くに沢でもあるのか、水の流れるような音が聞こえてくる。たしかに今日は山が静かだ、と健太郎は思った。死んだように静かだ。不吉なことが起こりかけているのかもしれない。怖れとともに、半ば待ち構えるような気持ちになった。

片山恭一

愛媛県宇和島市生まれ、福岡県福岡市在住。小説家。九州大学農学部農政経済学科卒業。同大学院修士課程を経て、博士課程中退。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。代表作は、故郷の宇和島市を舞台にした『世界の中心で、愛をさけぶ』。2001年に出版、2004年5月には発行部数が国内単行本最多記録の306万部となった。

川上信也

1971年 愛媛県松山市生まれ。福岡および大分県竹田市白丹を拠点とするフリーのフォトグラファー。福岡大学建築学科卒業後、大分県くじゅうの法華院温泉山荘に1997年より5年間勤務。その間にくじゅうの風景写真、アジアの旅風景を撮り続ける。その後、プロ活動を開始し、様々な雑誌撮影に関わり、風景のみならず、自然光を生かしたポートレート、料理などの撮影を行う。定期的に写真集を出版し、写真展やトークショーも開催。

Copyright © bokuralab Design by Yuji Higashi