連載書き下ろし小説

なお、この星の上に

作:片山恭一

写真:川上信也

プロデュース・ディレクション:東裕治

昭和30年代はじめ、中国山地の山奥で未来のエネルギー資源とされる鉱床が発見される。全国的な注目を浴びて沸き立つ村の人たち、新しい考え方や価値観への戸惑い、変わっていく生活、失われていく伝統的な暮らし。そのなかを生きる健太郎を主人公とする4人の少年たち。彼らを取り巻く大人たち、自然、野生の動物。戦争の傷跡はなお色濃く残っている。死者の国と現世を往還する者たち。古い伝説とアニミズムの面影を残す世界で物語は幕を開ける。もう一つの「失われた時を求めて」。過去のものの無化、存在するものの交替。そのなかで少年たちは何を見出すのか?

第十五章

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15-6

 村の墓地まで来ていた。冬枯れの兆しを見せはじめた草のなかに幾つもの墓が建っている。古いものもあれば新しいものもある。健太郎の家の墓もあるが、これまで身内の死には立ち会ったことがないので、葬られた死者たちのことはよく知らない。墓と墓のあいだには区画もなくて、芒やチガヤのような雑草が生えている。
 日当たりのいい場所を選んで腰を下ろした。なだらかな斜面を下ったところに農具小屋が見えた。藁葺き屋根の古いものだった。主に農機具や藁などを収納しておくためのもので、野良仕事に合間に腹ごしらえをしたり休んだりするのにも使われる。目の前には乾いた秋の景色が広がっている。午後の日差しのなかにいるのに暖かさを感じなかった。一人きりで放り出されているという感じが強かった。この身と心をもって生きることが寒々しいものに思えた。  どこか剥き出しの感覚のなかにいた。いろいろなものが引き裂かれているせいだ。親と子が、自分と他人が、自分と自分が。親密であるはずの者同士が、いつのまにか身も心も離れ離れになっている。山を流れ下る水が深い谷を穿っていくように、目に見えない深い隔たりが生じている。
 どうして自分たちは、こんなふうに引き裂かれているのだろう。誰かが意図的に引き裂いたわけではない。時代が引き裂いたのだろうか。科学の進歩のせいだろうか。祖父や祖母たちの時代、世界は一つの円かなものだった。すべてが備わり、満ち足りていた。時代が進んで豊かになり、選んだり、否んだり、捨てたりしているうちに、引き返せないところまで来てしまったのだ。いまでは何もかもが引き裂かれている。
 その空隙に森が広がる。深くて暗い森が広がっていく。
 アツシ、おまえが生きている世界はどうなのか。暗い森の奥に、いまも密かに息づいているのだろうか。自分が自分でありながら他のものでもあるような、人や動物や草木が一つのものであるような円かな世界が。そこには時間も空間もない。時間がないから自分というものはなく、空間がないから遠い近いもない。近くにあるものは遠くにあり、遠く隔たったものは至って近い。すべてのものが重なり合い融け合っている。そういう世界から、おまえはやって来るのだろうか。
 ぼんやりしているうちに時間が過ぎた。顔を上げると澄んだ空があった。一羽の鳥が空の青みの深いところを舞っている。あいつは一羽でいても、自分を弱いとも頼りないとも思わないだろう。人間だけが一人を弱いもの、自分を頼りないものと感じる。一人でいることに孤独や空虚をおぼえる。もともと人間は一人で生きるようにできていないのかもしれない。動物たちに比べると人間は不完全な生き物だ。だから家族や友だちを求めるのだろう。

片山恭一

愛媛県宇和島市生まれ、福岡県福岡市在住。小説家。九州大学農学部農政経済学科卒業。同大学院修士課程を経て、博士課程中退。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。代表作は、故郷の宇和島市を舞台にした『世界の中心で、愛をさけぶ』。2001年に出版、2004年5月には発行部数が国内単行本最多記録の306万部となった。

川上信也

1971年 愛媛県松山市生まれ。福岡および大分県竹田市白丹を拠点とするフリーのフォトグラファー。福岡大学建築学科卒業後、大分県くじゅうの法華院温泉山荘に1997年より5年間勤務。その間にくじゅうの風景写真、アジアの旅風景を撮り続ける。その後、プロ活動を開始し、様々な雑誌撮影に関わり、風景のみならず、自然光を生かしたポートレート、料理などの撮影を行う。定期的に写真集を出版し、写真展やトークショーも開催。

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