連載書き下ろし小説
なお、この星の上に
写真:川上信也
プロデュース・ディレクション:東裕治
昭和30年代はじめ、中国山地の山奥で未来のエネルギー資源とされる鉱床が発見される。全国的な注目を浴びて沸き立つ村の人たち、新しい考え方や価値観への戸惑い、変わっていく生活、失われていく伝統的な暮らし。そのなかを生きる健太郎を主人公とする4人の少年たち。彼らを取り巻く大人たち、自然、野生の動物。戦争の傷跡はなお色濃く残っている。死者の国と現世を往還する者たち。古い伝説とアニミズムの面影を残す世界で物語は幕を開ける。もう一つの「失われた時を求めて」。過去のものの無化、存在するものの交替。そのなかで少年たちは何を見出すのか?
第十三章
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13-2
話が膠着し、先へ進まなくなったところで、話題は自ずと火付けのことに戻ってきた。野犬たちを退ける妙案がないことの腹いせに、攻撃の矛先は山を切り開いている者たちに向けられるようだった。賢しらな者たちこそ愚かしく無分別なのだ、と誰かが口火を切った。利口に立ちまわっているつもりで、底の浅い知恵と目先の欲得で動いている。あんなもので電気を作ろうなどとは、まともな人間なら考えぬことだ。しかも電気を使うのは都会の者たちではないか。そのためになぜ村の暮らしが犠牲にならねばならない。
山を売ったのは誰か、と別の者が話を引き継いだ。町の者たちだろう。いずれ天罰が下ると思っていたら案の定だ。警察に押しかけて火付けの犯人を釈放せよと談判するか。冗談のほうへ逸れていこうとする話の流れをせき止めて、山師のような者たちには出ていってもらおう、としかつめらしく主張する者がいた。山は清浄な場所だ。自然が与えてくれる土地も、森も川も清浄だ。町の人間は汚れている。だから山を汚すのだ。わしらのお山は汚された。野犬の被害は何かの先触れではないか。お山を清めなければ、さらに大きな災厄がもたらされるかもしれない。
山に入って好き勝手なことをしている者たちは山に畏れを抱いていない、と別の者が分別臭く語りはじめた。育ってきた世界が違うのだ。ああした連中は自分らの土地という観念をもっていない。わしらにとって土地は、自分の一部みたいなものだ。土地から離れたら、自分が死んでしまう気がする。大袈裟に言えばそういうことだ。身体は生きているかもしれないが、心は死んでいる。ただ息をしているだけのものになってしまう。百姓をしている者は、雨が降って作物が実れば嬉しい。日照りで田畑が弱れば悲しい。それはわしらが土地とともに生きているからだ。人と土地が一心同体になって生きている証拠だ。本来、人の暮らしとはそういうものだ。土地と一緒に喜んだり悲しんだりするのが本当だ。土地が患えば人も患う。無闇に山の木を伐ったり崩したりすることは、自分を傷つけるのと同じだ。そうした理屈が、あの連中にはわからなくなっている。
どうも勉強し過ぎると、かえって道理がわかなくなるようだ、と誰かが間延びした声で収めにかかった。山のなかに埋まっている石ころで電気を作るなど、わしらには思いつかぬことだ。そんな魔法みたいなことは、この村の連中には思いつきようがない。頭がいいのだろう。大学を出て学がある。よほど勉強もしているはずだ。研究所の所長は外国まで行って勉強してきたそうだ、と事情を知っている者が言い添えた。アメリカとイギリスの大学で難しい科学の勉強をしてきたらしい。なるほど。それだけ勉強した人でも、学のないわしらでさえわきまえている道理がわからない。勉強してわかるものではないのだろう。挙げ句の果てに、自分の家に火を付けられているのだから世話がない。
片山恭一
愛媛県宇和島市生まれ、福岡県福岡市在住。小説家。九州大学農学部農政経済学科卒業。同大学院修士課程を経て、博士課程中退。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。代表作は、故郷の宇和島市を舞台にした『世界の中心で、愛をさけぶ』。2001年に出版、2004年5月には発行部数が国内単行本最多記録の306万部となった。
川上信也
1971年 愛媛県松山市生まれ。福岡および大分県竹田市白丹を拠点とするフリーのフォトグラファー。福岡大学建築学科卒業後、大分県くじゅうの法華院温泉山荘に1997年より5年間勤務。その間にくじゅうの風景写真、アジアの旅風景を撮り続ける。その後、プロ活動を開始し、様々な雑誌撮影に関わり、風景のみならず、自然光を生かしたポートレート、料理などの撮影を行う。定期的に写真集を出版し、写真展やトークショーも開催。
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