連載書き下ろし小説

なお、この星の上に

作:片山恭一

写真:川上信也

プロデュース・ディレクション:東裕治

昭和30年代はじめ、中国山地の山奥で未来のエネルギー資源とされる鉱床が発見される。全国的な注目を浴びて沸き立つ村の人たち、新しい考え方や価値観への戸惑い、変わっていく生活、失われていく伝統的な暮らし。そのなかを生きる健太郎を主人公とする4人の少年たち。彼らを取り巻く大人たち、自然、野生の動物。戦争の傷跡はなお色濃く残っている。死者の国と現世を往還する者たち。古い伝説とアニミズムの面影を残す世界で物語は幕を開ける。もう一つの「失われた時を求めて」。過去のものの無化、存在するものの交替。そのなかで少年たちは何を見出すのか?

第十二章

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12-10

 森がやって来たのだ、と健太郎は思った。森は危険な場所だ。このあたりの子どもたちは物心つくと、親たちから野生の茸は絶対に食べてはいけないと教えられる。森には人に危害を与える虫や獣もいる。同時に、森は生きるための糧を与えてくれるものでもある。森なくして人の暮らしは立ち行かない。太古から人は森とともに生きてきた。危険な森を少しずつ安全な森につくり変えてきた。森は複雑な場所でもある。善も悪も渾然一体となって渦巻いている。その森が、どこか自分の深いところに広がっているのを感じた。森がやって来る前の自分を、彼はもう思い出せない気がした。
 家路をたどっているつもりで、いつのまにか村の氏神を祀る神社に来ていた。ふらふらと足を踏み入れた。鳥居を抜けて境内に入り、お参りもせず小さな拝殿の縁側に腰を下ろした。祖父の言っていたことを思い出した。ちょっと変わった子どもが神隠しにあうことが多かったという。いつも一人で山のなかで遊んでいたり、人間よりも動物と仲が良かったりする子ども。霊感の強い子どもよく神隠しにあったらしい。
「気が変になりよるのかもしれん」
 冗談めかした独り言のなかに、怯えの予感があった。どうして自分はこんな目に遭うのだろう。これは何かの報いなのか。誰かの呪いなのか。自身には覚えのないことだった。神さまの遊び場を汚したこともなければ、由緒ある木を伐ったこともない。墓石に小便をひっかけたことも、無闇に動物を傷つけたこともない。むしろ子どものころから動物にはやさしく接してきた。家で飼っている牛はおろか、鶏でさえも不承不承に食べている。ひょっとして先祖に悪をなした者でもいるのだろうか。
「馬鹿くさい」
 いい加減に切り上げないと、詮索は果てしなくなりそうだった。考え過ぎるのがよくないのだ。気持ちが細やかになって内へ向かうから、ろくでもないものと出会ってしまう。感じなくていいことまで感じてしまう。普通の者が知覚しないことを知覚してしまう。そんなふうに生まれついているのかもしれない。古い言い伝えや俗信の類も、頭では否定しながら、どこかで心惹かれている。幼いころからそうだった。高い棚から物が落ちたり、不意に柱が鳴ったりすると、何かの予兆ではないかと心が騒いだ。世にも不思議な、人知を超えたことが起こるのではないかと皮膚が慄いた。恐怖と魅惑が入り混じった予感に全身がとらわれていた。
 人の気配を感じて顔を上げると、銀杏の木のところに清美が立っていた。いつのまにか心が虚ろになっていたらしい。彼女は縁側の端に腰を下ろした健太郎を訝しげに見ていたが、意を決したように近づいてきて正面に立った。

片山恭一

愛媛県宇和島市生まれ、福岡県福岡市在住。小説家。九州大学農学部農政経済学科卒業。同大学院修士課程を経て、博士課程中退。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。代表作は、故郷の宇和島市を舞台にした『世界の中心で、愛をさけぶ』。2001年に出版、2004年5月には発行部数が国内単行本最多記録の306万部となった。

川上信也

1971年 愛媛県松山市生まれ。福岡および大分県竹田市白丹を拠点とするフリーのフォトグラファー。福岡大学建築学科卒業後、大分県くじゅうの法華院温泉山荘に1997年より5年間勤務。その間にくじゅうの風景写真、アジアの旅風景を撮り続ける。その後、プロ活動を開始し、様々な雑誌撮影に関わり、風景のみならず、自然光を生かしたポートレート、料理などの撮影を行う。定期的に写真集を出版し、写真展やトークショーも開催。

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