連載書き下ろし小説

なお、この星の上に

作:片山恭一

写真:川上信也

プロデュース・ディレクション:東裕治

昭和30年代はじめ、中国山地の山奥で未来のエネルギー資源とされる鉱床が発見される。全国的な注目を浴びて沸き立つ村の人たち、新しい考え方や価値観への戸惑い、変わっていく生活、失われていく伝統的な暮らし。そのなかを生きる健太郎を主人公とする4人の少年たち。彼らを取り巻く大人たち、自然、野生の動物。戦争の傷跡はなお色濃く残っている。死者の国と現世を往還する者たち。古い伝説とアニミズムの面影を残す世界で物語は幕を開ける。もう一つの「失われた時を求めて」。過去のものの無化、存在するものの交替。そのなかで少年たちは何を見出すのか?

第十二章

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12-1

 町では火事が相次いだ。どれも不審火とみなされていた。おそらく同じ犯人だろう、と村の者たちは言い合った。古い記憶が掘り起こされた。祖母が子どもだったころの話だ。無籍無宿のまま漂泊生活をしている者たちを、村の人たちは「山乞食」と呼んで蔑んでいた。そんな境遇の若者の一人が、あるとき盗みの嫌疑をかけられ、村の者たちに袋叩きにされた。しばらくして彼らは集団で襲ってきて、多くの家が火を付けられた。
 だが山乞食を見なくなって長い年月が経つ、と誰かが言った。戦争がはじまる前から、すでに彼らは姿を見せなくなっていた。子どもの悪戯ではないかと言う者がいた。悪戯にしては度を越している。住人は危うく焼き殺されるところだった。怪我人も出ている。鳶口とびぐちで家の窓を破ってなかに入ろうとした消防団の青年が、落ちてきたガラスで首を切った。もはや悪戯では済まない。立派な犯罪、重罪にも値する。子どもにそんなことができるか。中学生くらいならやれるだろう、と別の誰かが言った。このあたりの中学生にそんなことをする者はいない、と別の者が異を唱えた。他所から来た者ならどうか。どこから来た。飯場で暮らしている人夫の子ではないのか。人夫はみな単身で来ているはずだ。子連れはいないと聞いている。
 健太郎たちのあいだでも、火事のことは話題になっていた。授業の引けたあとの教室で、十人ほどの男子生徒がまわりの耳を憚るようにして話をしていた。おおっぴらに語ってはならないことだった。なにしろ自分たちは「容疑者」なのだ。不審火がつづくかぎり容疑は晴れない。身の潔白を証明するためには真犯人を探し出さなければならない。そんな暗黙の了解のようなものがあった。
 被害者めいた気分のなかから、誰の口からともなく「戦争の落し子」という言葉が出てきた。あの戦争では、たくさんの孤児が生まれた。とくに父親を知らない子どもは多くいる。彼らは父親を探して放浪する。自分の身内を探してさまよい歩く。兄弟や姉妹はいないのか。そんなものはいない。落し子は一人ぼっちだ。
「なせ一人なんか」
「戦争の落し子とはそういうもんよ」
「そういうもんとは、どういうもんか」
「おまえんとこのとうちゃんは戦争に行ったか」
「行った」
「そんならおまえには、まだ会ったことのない兄ちゃんや弟がおるかもしれんな」
「わしには妹しかおらん。妹が一人、それだけじゃ」
「おまえの知らん兄弟のことよ」

片山恭一

愛媛県宇和島市生まれ、福岡県福岡市在住。小説家。九州大学農学部農政経済学科卒業。同大学院修士課程を経て、博士課程中退。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。代表作は、故郷の宇和島市を舞台にした『世界の中心で、愛をさけぶ』。2001年に出版、2004年5月には発行部数が国内単行本最多記録の306万部となった。

川上信也

1971年 愛媛県松山市生まれ。福岡および大分県竹田市白丹を拠点とするフリーのフォトグラファー。福岡大学建築学科卒業後、大分県くじゅうの法華院温泉山荘に1997年より5年間勤務。その間にくじゅうの風景写真、アジアの旅風景を撮り続ける。その後、プロ活動を開始し、様々な雑誌撮影に関わり、風景のみならず、自然光を生かしたポートレート、料理などの撮影を行う。定期的に写真集を出版し、写真展やトークショーも開催。

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