連載書き下ろし小説

なお、この星の上に

作:片山恭一

写真:川上信也

プロデュース・ディレクション:東裕治

昭和30年代はじめ、中国山地の山奥で未来のエネルギー資源とされる鉱床が発見される。全国的な注目を浴びて沸き立つ村の人たち、新しい考え方や価値観への戸惑い、変わっていく生活、失われていく伝統的な暮らし。そのなかを生きる健太郎を主人公とする4人の少年たち。彼らを取り巻く大人たち、自然、野生の動物。戦争の傷跡はなお色濃く残っている。死者の国と現世を往還する者たち。古い伝説とアニミズムの面影を残す世界で物語は幕を開ける。もう一つの「失われた時を求めて」。過去のものの無化、存在するものの交替。そのなかで少年たちは何を見出すのか?

エピローグ

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epi-16

 長い廊下をゆっくりと進んだ。立ち上がれば窓から下の庭を見下ろすこともできるが、転倒のおそれがあるので車椅子から動かさないように言われている。庭と反対側に入手者の部屋が並んでいた。いずれも個室か四人部屋だった。部屋のドアは開け放たれたままになっており、個室のベッドに横たわる高齢の入所者の姿があった。
「清美」
 誰にも聞かれないところで椅子を止めて、その名前を口にした。
「おぼえているか。山狩りの日にわしが撃たれて入院しているときに、見舞いに来てくれたことがあっただろう。あのときおまえは花を持ってきてくれた」
 言葉が戻ってこようとしていた。声のことを話したかった。生死のあいだをさまようようであったとき、いろいろな者たちが自分に声をかけていった。それらの声が、どれも最後には清美の声になった。意識を閉ざして眠っているあいだ、ずっと寄り添っていてくれた。温めてくれた。うたってくれた。泣いてくれた。そのどれもが清美、おまえだと感じた。手の届かないところで、自分が抱きしめられていると感じた。
「それから遠い春の日に、昼寝をしているわしを、おまえが覗き込んだことがあっただろう」畳みかける口調にならないことに気を付けながら、また別の場面へ言葉を向けた。「草の匂いがしていた。風が梢を揺らしていた。木の葉のあいだで光が輝き、小鳥たちがやけに囀っていた。おまえもわしも若かった。若くて幼かった。そんな春の日があったな」
 車椅子のレバーを握ったまま、足を止めてつづけた。
「幼かったが、二人とも子どもではなかった。人間の男女というよりは二匹の奇妙な動物みたいに、わしらは出会った。そして眼差しを交わした。あのときわしは自分を見つけたと思った。自分と出会い、あのときからわしはいまの自分になった。そのときの自分を、いまもずっと生きている。おまえと一緒に、おまえの眼差しのなかで生きてきた気がする」
 清美はぼんやり前を見ている。車椅子に坐ったまま眠っていることも多いという。はたして言葉は届いているのだろうか、とおぼつかない気持ちになりかける。方で、届いているという確信に近い思いがあった。あのときおまえがおれを届けてくれたように、おれの言葉はいまおまえに届いている。そうだろう?

片山恭一

愛媛県宇和島市生まれ、福岡県福岡市在住。小説家。九州大学農学部農政経済学科卒業。同大学院修士課程を経て、博士課程中退。大学院在学中の1986年、『気配』で文学界新人賞を受賞しデビュー。しかしその後1995年の『きみの知らないところで世界は動く』まで作品が単行本化されない不遇の時期を過ごす。代表作は、故郷の宇和島市を舞台にした『世界の中心で、愛をさけぶ』。2001年に出版、2004年5月には発行部数が国内単行本最多記録の306万部となった。

川上信也

1971年 愛媛県松山市生まれ。福岡および大分県竹田市白丹を拠点とするフリーのフォトグラファー。福岡大学建築学科卒業後、大分県くじゅうの法華院温泉山荘に1997年より5年間勤務。その間にくじゅうの風景写真、アジアの旅風景を撮り続ける。その後、プロ活動を開始し、様々な雑誌撮影に関わり、風景のみならず、自然光を生かしたポートレート、料理などの撮影を行う。定期的に写真集を出版し、写真展やトークショーも開催。

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